雑感

あーテストだ。明日というか今日テストだ。テストってなんだろか?
昨日起きたらね、時計が17って書いてたんですよ。ええ。目を疑ったね。
これで予定総崩れ。というのも学校に教科書を買いに行く予定だったんですよ。ただ、この時間から準備して出かけたら生協が締まるわけで。

え?何の教科書かって?今日のテストのだよ!orz

政治経済系のテストだから、僕の有り余る知識を生かせばゼロ勉でもいけるとうそぶいておこう。w

最近何をしていたか。まあはてなで下のような質問していただけじゃなくて、鶴を折ってたんです。千羽鶴。友人が怪我したので。
これすげーむずい。手吊る。まあ僕が死ぬほど不器用なのもあるんですが、最初一個10分強かかってた。もう自分の不器用さに辟易どころか、絶望なわけですよ。最終的には一個3,4分で出来るようになりましたが。まあこれやってみて、千羽鶴折った奴すげーよって心から言えるようになりました。思い起こせば、W杯決勝の大量の折鶴や、広島での鶴ってほんとありえん!!より感動。今更だけどね。

さて、電話ですが、日曜日の晩にしようかとおもてます。土曜って外出してる可能性高いでしょうし。それまで回答読み直して、最善の策考えてイメトレイメトレと。

ペナルティワッキーのちょっとエエ話し。

お隣日記で飛んでみたらごっつごっつものごっつエエ話しが載ってたのでトラックバック&転載。長文注意。

http://www.so-net.ne.jp/FW/world_cup/2002/column2/pw-012.html

じゃあ、そろそろ本題に入りましょう。今回は「ワッキーのサッカー生い立ち記」の続きを書きたいと思います(興味のない方はあまりおもしろくないかもしれませんが、あしからず……)。

私が中学3年になる春に、釧路からまた千葉の船橋市の海神中学校に転校となりました。親父の仕事の関係上、全国いろいろなところでサッカーをしてきた私は、まさに「キャプテン翼」の岬君状態でした。 でも、この海神中には、小学4年までいたので 友だちはたくさんいたし、サッカー部の友だちもだいたいサッカーを続けていたので、早くうち解けることができました。そしてすぐチームのエースになり、船橋市の選抜に選ばれたのです。

 この船橋選抜の月2回ほどの練習は、のちに私が入学することになる名門市立船橋高校のグラウンドで行われていたのです。そのとき市船の1年生と船橋選抜とで練習試合をやっていたのですが、その市船の1年生チームに1人すごく頭が長くて、足がめちゃくちゃ速い選手がいたのです。その選手こそ何を隠そう、後の私の相方・中川秀樹だったのです(今はただのおっさんですが)。

 その練習試合でけっこう目立っていたからか、市船の監督である布先生からスカウトの話がきました。実はそのとき、私はもうすでに東京学館浦安という高校に進学がほぼ決まっていたのです。でも、布先生からの何回ものラブコール(実際に布先生と何度も電話で話した)に押され、市船に入学することに決めました。ここから私のサッカー人生すべてといっても過言ではない、3年間が始まりました。

 期待に胸を躍らせ、意気揚々と入学、そしてもちろんサッカー部に入りました。最初の練習日に私の目に飛び込んできたのは、あのちょっと前まで優しく私にラブコールをかけてくれた布先生の一転した鬼のような顔でした(13年も前の話なので、今は違いますよ)。

  そして練習は、中学校のそれとはまったく違う、大人のサッカーでした。あまりの練習の厳しさに、入部して1週間ぐらいしたときに、同期のみんなで集まり、集団でサッカー部を辞めようと話し合ったくらいです。結局私は残ったのです が、何人か辞めた友だちもいました。でも私は頑張って、Aチームに入ることができました。  Aチームに入れた1年生は私も含め、4人ぐらいでした。その初めての雨の日の練習は忘れられません。その当時の市船の雨の日の練習は、10kmのロードワークと筋力トレーニングでした。私はその最初のロードワークで3年生を抜いて1位 になってしまったのです。みんなからも「すげーな、お前」などと誉められて嬉しかったのですが、布先生がその結果 を知ってしまったことにより、走りものがさぼれなくなってしまっ たのです。

 一度、すごく体調が悪いときにロードワークをして、2番になったことがありました。布先生には「お前はどんなときでも1番じゃなきゃダメなんだ。さぼってんじゃねー!!」と怒られました。そのときはすごくショックでしたが、そうやって絞られることにより、体力はメキメキとついていきました。

 そして、高校初めての夏には練習内容は普段の3倍以上という「地獄の夏合宿」がありました。この最初の夏合宿で、今でも後悔していることがあります。それは合宿2日目の午前練習のとき、右足がどうしても痛くて、布先生に「見学させてください」と言ったところ、「自分の限界は自分で決めるもんじゃない!」と叱られ、見放されたようになってしまったことです。同期のみんなも絶対にどこか痛かったはずなのに、みんな歯を食いしばって練習に食らい付いていました。それなのに私だけ自ら放棄してしまって、すごく惨めな思いをしました。今書いていても目に涙が浮かんできそうです。だからそれ以来、「限界は自分で決めない」と誓いました。

 夏が終わり秋になると、全国高校サッカー選手権の時期です。私はAチームだったのですが、ベンチに入ることができず、応援団長をかってでました。その年、市船は見事千葉県代表となり、全国大会出 場を遂げました。選手権の時期になると、普段鬼のように怖い布先生が、優しくなるので、この時期の布先生は好きでした。

 選手権では私の応援の甲斐あってか、決勝まで進出しました。決勝の相手は静岡の名門清水商業。私はスタンドから死に物狂いで応援しました。今の相方の中川はレギュラーで試合に出ていました。

 試合は後半に動きました。コーナーキックから清商のスーパー1年生、山田隆裕(元マリノス、現ベガルタ)にヘッドで決められ、結局そのまま試合終了となり、市 船は準優勝に終わりました。

 私は国立のスタンドで大泣きしました。大声で「なんであんなに練習したのに、1番になれないんだー!」と叫んだのを今でも覚えています。「絶対に清商より辛い練習をしてきているのに……」と思うと、悔しくて涙が止まりませんでした。そして、「自分の代になったら、この借りは返す! 待ってろ、清商!」と心に誓ったのです。

 2年生からの話はまた次回ということで。今回も作文のような文章になってしまったことをお詫びして終わります。




市立船橋サッカー部1年生の1年間は終わり、晴れ て2年生になりました。それまでMF(昔でいうウィングハーフ)だった中川(今の相方)はスイーパーにコンバートされ、僕はレギュラーになり、右のサイドバックのポジションを任されました。

 チームがまだ固まっていないうちに、毎年恒例の春の遠征に行くことになりました。確か、京都に行ったと思うのですが、とにかくDFがボロボロで、布先生にめちゃくちゃ怒られたのを今でも覚えています。そして、そのとばっちりを受けたのが相方である中川でした。帰りのバスの中、相方は京都〜東京間、ずっと立たされていて、布先生が運転している横に立たされていたため、休むこともできませんでした(よく頑張った! 相方)。

 そして夏がやって来ました。夏といえば、前回にも書きましたが、地獄の夏合宿です。去年のこともあったため、僕はとても緊張していました。ですが、この1年間で強靱な体力を身につけたおかげで、精神的にとても楽に感じ、そんな自分に驚きました。

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 夏が終わると、僕にとって2回目となる高校サッカー選手権がやってきました。千葉県予選では決勝まで行くことができました。決勝の相手は名門習志野高校でした。僕はそのまま右SB、相方もスイーパーとして出場しましたが、結果 0−2で敗れてしまいました。

 僕は1年の、国立のスタンドで泣いたときよりももっと泣きました。それは大好きだった1つ上の先輩たちがいなくなることがとても悲しかったからです。そして、その次の日から2年と1年しかいない新チームの練習が始まったのです。

 初めての練習が終わったとき、いつも練習後は先生のところに集合し、キャプテンが「気をつけ、礼!」という号令をかけることになっています。そして、今日そのときになって「キャプテンは誰がなるのか?」ということを考えたのです。

 布先生は毎年、生徒の中から自発的に出てくるキャプテンをキャプテンとして認める方針だったのですが、僕たちは昨日まで3年生がいたため、まだみんなでキャプテンを決める話し合いをしていなかったのです。号令をかけるのは誰か……となったとき、みんなが僕の顔を見ています。このとき、僕は心の中で「今年のキャプテンはオレかよ!」 とつっこんでから、「気をつけ! 礼」と号令をかけてしまいました。

 すると布先生は去り際に一言、「今年は脇田かぁ」とぼそっとつぶやいたのです。その意味深なつぶやきが、僕はとても恐ろしかったのを今でも覚えています。

 そして僕がキャプテンを務めて、1か月くらい経ったときのことです。練習中に、僕の腰が突然「ピキッ」と音を立て、下半身がしびれてきたのです。今思えば、これが悲劇の始まりでした。

 どうしようもないくらい腰が痛いので、布先生に言いに行くと「また怪我か! お前もういらねぇ。帰れ」とすごい剣幕で怒られました。そして、次の日から僕はグラウンドに入れてもらえなくなりました。

 グラウンドに入れないので、僕はグラウンドの周りのゴミ掃除をしたり、草むしりをしたりしていました。腰の怪我もだいぶ治り、走れるようになった頃、先生に「練習をさせてください!」と言いに行 くと、「ダメだ! お前はいらない」と言われてしまいました。

 どうしたら許してもらえるのか……。散々迷ったあげく、当時の吉田栄作風のかっこいい髪型をつるつる坊主にして、次の日、先生のところに行きました。すると、先生は「お前はわかっていない。自分のどこが悪いのか、作文にして来い!」と言いました。

 次の日、作文を持っていくと先生は、「ダメだ。まだわかってない!」と言い、また次の日も作文を持っていくと、「まだわかっていない」と言われました。3回目は書くことがないのと「わかってない!」と言われるのがイヤで、すごく考えてから3日後に作文を持って行きました。すると、「作文書くのに、何日かかってんだ、おめーは!」と怒鳴られてしまいました。

 僕はどうしていいのかわからなくなり、練習どころか学校にも行かなくなりました。そして、このあととんでもないドラマチックな出来事が起こったのです!

 それは……次回ということで、あしからず。




「そうだ、北海道へ逃げよう」

 さて、本題に入りましょう。今回も前回の続きから書きたいと思います。

 学校に行かなくなり、僕は自分の部屋の中でずー

っと考え込むようになってしまいました。今でいうところの「ひきこもり」でした。散々考えたあげくに出た答えが「そうだ! 北海道に逃げよう!!」でした。弱冠17歳の僕には布先生から与えられた難問が解決できず、とうとう頭が飛んでしまったのです。

 そう思い立った瞬間、僕は市船の大きな遠征バックに着替えと毛布を詰め込んで、家を出ようとしました。がしかし、北海道まで行くお金がないことに気づき、生まれて初めて盗みをしてしまいました。といってもお母さんがこつこつ貯めていた500円玉 貯金箱ですけど、結構いっぱい入っていたので、すごく罪悪感があったけど、それを手に思い切って家を出ました。

 それからとりあえず東京駅に行って、みどりの窓口でその沢山の500円玉 をお札に換えてもらいました。すると7万5000円にもなりました。そして僕は上野に向かいました。なんとなく飛行機で行くのが怖かったので、電車で行くことにしたからです。それと石川さゆりさんの歌「津軽海峡冬景色」の歌詞で、「上野発の夜行列車〜」というフレーズが好きだったから、僕は本当に上野発の夜行列車(しかも青森行き)のチケットを買いました。

出発直前に肩をたたかれ

振り返ると……

 出発15分前くらいに、僕はもう列車に乗り込み、自分の席に座って電車が動き出すのを待っていました。

「プルルルー」と出発のベルが鳴り始めたとき、僕は後ろから誰かに肩をたたかれたのです。振り返ってみると、な、なんと、あの布先生が立っているではありませんか!!「降りろ!!」

 と言われ、僕はなにがおこったのか訳がわからなくなり、そのまま電車から降ろされました。

 そして上野発の夜行列車はなにごともなかったかのように出発し、僕と先生はホームにいました。

「なにやってんだ、おまえ!!」という布先生の声を聞いたとき、はじめてそこで布先生が僕を捜しあててくれたんだという現実に気づき、先生の顔を見た瞬間、僕は「ワ〜ンワ〜ン」と大声を出して泣いてしまいました。

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先生と親の偉大さに感動

 あとから聞いた話だと、パートから帰ってきたうちの母親が、僕が家出したことに気づき、すぐ布先生のところに電話を入れたみたいで、それから先生は直感で「上野」と決めつけて、学校のある船橋から車で高速をとばしてギリギリのところで僕をつかまえたみたいです。

 まさにミラクル!! ドラマみたいなことが現実におこったんです。そして僕は布先生の車の助手席に乗せられ、自宅まで送ってもらいました。その道中、先生はなぜあんなにも僕を追い込んだのかを話してくれました。先生はこう言ってました……。

「おまえは、おれの現役のころに似てるんだ。だからお前を追い込んだ」と……。憎しみではなく、ちゃんと愛情をもってくれていたんだということに僕は感動し、布先生を深く尊敬しました。

 家に着き、僕が車を降りようとしたそのときに、布先生が言いました。 「どうすんだ脇田、おまえはもうサッカーをやめるのか?!」

 僕は言いました……「いいえ、サッカーはやめたくありません。またやらせて下さい!!」。先生は「わかった。じゃあ、明日の朝練から来い!!」と……。

 そして玄関を開け、どんな顔をして親に会ったらいいかと思っていると、なにごともなかったような笑顔で「おかえり!!」と言ってくれました。

 僕は感動で胸が張り裂けそうだったけど、いつものように「ただいまー」と言って自分の部屋に入り、親の偉大さをかみしめました。

 そしていまだにその使わなかった上野発青森行きのチケットは僕のおまもりとして部屋に飾ってあります。それはあのとき車の中で先生がこう言ってくれたからなんです。 「そのチケットはそのまま、おまえが持っていろ。これから辛いことがあって、つぶれそうになったら、それを見て今日のことを思い出せ……」と。

んーテストゼロ勉だとか上で言ってる自分が恥ずかしいことこの上ないわ。周りに支えられている自分が、何にも応えないでぼけーっとしてるのがねえ。。。さてがんばりますか。

久しぶりに腹筋つりかねんくらい笑った

まずは質問から。
http://www.hatena.ne.jp/1105963308
その中の最後の回答。
日記一ヶ月分を読めばよろし。但し、激下ネタ。うんことかしっこが好きな小学生並みの精神年齢をお持ちの俺とか、俺とか俺とか・・・には受けます。
http://www.enpitu.ne.jp/usr7/bin/day?id=71176&pg=20040621

雑記。色々と。

はてな質問ランキングで10位以内に入ってもーたーー。反響すげーー。(((( ;゜Д゜)))ガクガクブルブル
正直予測してなかった。今は反省している

こえーよーこえーよーこのまま電話即切りにあったらどーしよー(´ヘ`;)
とはいえ、まそんな事にはならんだろうと結構余裕だったりするのだが。